上の古賀町誌により、いろいろ分かりますね。
・清滝水路は郡奉行 冨永甚右衛門(とみなが じんえもん)が指導者(責任者)として工事が行われた。
・明和九年(1772年)前後には新しい溜池が多数造築された。蒋野(こもの)村川上から旦ノ原(だんのはる)の通し溝を掘らせられた。
・水路1は清滝川口より大行寺原までで古溝広げて(改修)約415間(約754.54m)
・水路2は蒋野抱稲作古溝尻より上西郷村堤頭(つつみかしら)まで新溝堀で(新設)約766間半(1393.634m)
・清滝から大行寺原→旦ノ原(だんのはる)→山久丘陵→黒薄台地の間の掘溝は実に5.8Kmを流れて福間町に流入している。
・舎利蔵、大森、柳井、竹ノ尾、引田、百田、赤坂など、七ヶ所の溜池に灌水している
・取水は毎年一月十一日から五月十五日までの間
・福間町から薦野区へ水利費約五〇万円が支払われている。(本が書かれた昭和60年(1985年)時点で50万円ですが、今はいくら払われているか調査不足で不明)
(補足説明)
・1間 = 1.81818m
・〆惣間数 千百八拾壱間半 … 〆惣間数=合計の距離の意味、 千百八拾壱間半=1181.5間 × 1.81818m = 2148.179m
・大行寺原 … 薦野と舎利蔵の境界当たりの台地
・旦ノ原 …
旦ノ原(だんのはる)は旧糟屋・宗像二郡の境で、莚内・薦野(糟屋郡)・内殿・上西郷(宗像郡)の四村にまたがる丘陵一帯のこと
・山久丘陵 … 柳井池付近の丘陵地
・黒薄台地 … 舞の里5丁目に黒薄児童公園というのがあるので、その辺りの地名と思われる。竹尾池(上・下)の近く
(疑問点)
(1)古溝=四百拾五間、新溝=七百六拾六間半、合計=千百八拾壱間半(約2,150m)というのはどこまで?
清滝取水口から 2,150m なら旦ノ原(だんのはる)までの半分程度ですが、どこまで水路を造ったのか? 柳井池までの水路を造ったのではないのか? 柳井池までなら4,500mもあるのだが?
結局、明和9年(1772年)に造った水路はどこまでなのか良く分からない? 他の資料だと柳井池まで造ったというのが多い。そうなると水路の距離は約4,500m ですね。
明和9年(1772年)初期に造った水路は大森池(上)柳井池(上)(下)までで、その後に大森池(下)や竹尾池や引田池、百田池などに水路を造り導水した。このような手順だと思います。
(2)「舎利蔵、大森、柳井、竹ノ尾、引田、百田、赤坂など、七ヶ所の溜池に灌水している」と、あるが、
この最初の「舎利蔵」と最後の「赤坂」の溜池はどこにあったのか? 調査しても良く分からなかった。
ちなみに赤坂池は江戸時代の資料に上西郷の池八か所の中に「赤坂池 享保五年(1720年)築立」と出てくるので上西郷にあったことは分かった。たぶん柳井池と竹尾池の間であろうと想像はできる。
舎利蔵の溜池も現在の林田グリーンリサイクルの東側の方くらいしか造る場所はないですね。たぶんその付近だと思います。
水路の築造で奮闘した郡奉行 冨永甚右衛門(とみなが じんえもん)は当時の宗像、表粕屋、裏粕屋三郡の郡奉行を勤めた人です。
宗像郡では色定法師の「一人一筆一切経」の編纂(へんさん)や保管などに尽力し、文化面でも功績をのこしています。
が、反面その貢租(こうそ=年貢や賦役など)の取立ては非常に厳しいものでしたので、郡民の不平不満がつのり、
遂に天明五年(1785年)十一月に隠居を仰せつけられました。
ただし家督は嫡子の冨永軍次郎が相続し、父と同じく三郡の奉行となったそうですから、通常の相続に近いので酷い(ひどい)お咎め(おとがめ)はなかったようです。
厳しかったのも、それだけ仕事熱心だったいうことでしょうね。