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◆◆◆◆◆ 今川遺跡 ◆◆◆◆◆

 宮地嶽神社の南から西に今川が流れており、河口付近で90度近く蛇行しています。その蛇行している場所の西岸に小高い丘がありそこが今川遺跡です。
1977年,1978年に今川西南岸の砂丘にて地権者により砂取り事業が行われた時に多量の鉄鏃(てつぞく)や土器が出土し、1979年、1980年に津屋崎町教育委員会により発掘調査が行われました。
多くの遺跡が住宅開発により破壊されましたが今川遺跡は奇跡的に発掘調査された弥生時代の遺跡です。
この今川遺跡からは縄文晩期から弥生後期までの出土品がありますが中心は早前期(紀元前4世紀から前5世紀)の物です。遺跡からは住居三軒、円形につらなるV字溝、 たたら跡(昔の製鉄方法)一か所、石器や土器など多数出土しています。
弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説のようです。今川遺跡のたたら跡(昔の製鉄方法)の年代は7世紀後半のものだろうと思われています。

津屋崎町史によると、今川遺跡の特徴は下記の5つだそうだ。
 一、弥生時代前期初頭の環濠集落遺跡である。
 二、住居跡の形態は朝鮮無文土器文化期と類似している。
 三、土器は今川I式・U式に分類され、板付I式土器に含まれるが、遠賀川流域出土の土器に類似している。
 四、青銅器(銅ノミ)、鉄器(鉄鏃)が今川I式土器に伴って出土しており、時期的に最古(紀元前8世紀末)のものといえる。
 五、玉類は日本では産出しないアマゾナイト製で石材、形態ともに無文土器文化期に類似している。
弥生時代の開始を考える上での重要な遺跡だそうだ。

 この遺跡の弥生時代前期は本格的な水田稲作が開始された時代です。この遺跡には縄文土器系統の土器も混在して出土します。稲作が始まる少し前から、稲作が始まった時期、そして安定的に稲作が行われた時期の土器が出土しており、 北部九州における稲作文化定着期の土器を代表する資料となっているのです。
弥生時代前期の土器は同じような顔つきをしていて特徴的です。これらは総称して遠賀川式土器と呼ばれていて、北部九州の土器が稲作文化の広がりとともに西日本一帯に広まっていると理解されています。 その遠賀川式土器が今川遺跡でも出土しており、それもかなり古い時期の土器だと分かっています。遠賀川土器の発祥の地はこの今川遺跡だった可能性もありますね。  もっと言うなら日本の稲作の始まりはこの今川遺跡だった可能性も無きにしもあらずなのです。弥生時代は本格的な水田稲作の開始からと言う定義ですから、弥生時代の始まりもこの今川遺跡だったことになります。 そして、日本最古の青銅器、鉄器(鉄鏃)もここから出土しているのです。もっと、もっとオーバーに言うなら「日本の夜明けはここから始まったのかもしれません。」 一般人にはあまり知られていない今川遺跡ですが、けっこう、すごい遺跡なのです。

 発掘者を驚かせたのは中国北辺の遼寧(りょうねい)地方で作られた遼寧式銅剣を再加した有茎両翼銅鏃(ゆうけいりょうよくどうぞく)や銅ノミでした。 また、二個の玉はアマゾナイト製(天河石)で朝鮮半島で産出し日本ではほとんど産しない石でした、溝内の三号竪穴式住居は、韓国・松菊里(しょうきくり)遺跡と同形の竪穴でした。 発掘者の中には朝鮮半島から直接ここに住みついた可能性が高い遺物内容であると言う人もいたそうです。

今川遺跡と同一丘陵に位置する宮司大ヒタイ遺跡と言うのも近くにあり、 弥生時代中期(紀元前1世紀)の貯蔵穴8基、古墳時代前期(4世紀)の竪穴式住居跡4軒などが発見されています。

● 参考にした資料
 ・今川遺跡(津屋崎町文化財調査報告書)
 ・宮司大ヒタイ遺跡(津屋崎町文化財調査報告書)
 ・蒙古戦没者の供養塔(長瀬福孝著)
 ・その他の資料

 
 


 ◆ 1979年、1980年に発掘調査された今川西岸 ※ 場所はここ (Google Map)
1979年、1980年に発掘調査された今川西岸


 ◆ 発掘調査時には今川の西岸(写真左側)はこぶのように右奥の家の前の草地まで出っ張っていた
発掘調査時には今川の西岸(写真左側)はこぶのように右奥の家の前の草地まで出っ張っていた

 ◆ 図書館で本を借りてきた(今川遺跡調査報告書)
図書館で本を借りてきた(今川遺跡調査報告書)

 今川遺跡の発掘調査が行われた宮司浜2丁目21の場所は標高6〜8mの場所です。この丘の一番高い場所でも標高14m程度の小さな丘陵地帯です。今でも海に近い場所ですが、弥生時代の前期頃には丘のふもと迄海だったと思います。 海に面した小さな丘陵地帯で川もそばにあり、たくさんの土器の出土から見て川の近くでは水田も作っていたし、前の海では魚も獲れ、住居は水害にあわないように少しの高台に造ったのでしょうね。
この高台の宮司浜2丁目は今はモダンな家も多く高級住宅街になっていますね。

 カメリアステージ歴史資料館には福津市で出土した考古学資料の多くを展示していますが、今川遺跡関係の展示は土器や石器、銅鑿(どうのみ)、銅鏃(どうぞく)、勾玉(まがたま)、丸玉(まるたま)、管玉(くだたま)などの展示が 行われています。大宰府の九州国立博物館にも若干の出土品が展示されているようです。

動画案内(約5分)


 ◆ 今川遺跡の出土品 (調査報告書 本扉の写真) ※ 左から有茎両翼銅鏃(やじり)、銅鑿(どうのみ)、玉類
今川遺跡の出土品 青銅器及び玉類 (調査報告書 本扉の写真)※ 左から有茎両翼銅鏃、銅鑿(どうのみ)、玉類

 ◆ 発掘調査した場所が分かった※ ビッグ写真
発掘調査した場所が分かった(今川遺跡調査報告書)
 ◆ 発掘場所の地形測量図 ※ ビッグ写真はここ
発掘場所の地形測量図

 ◆ 出土した土器(調査報告書)写真はほんの一部
出土した土器(調査報告書)写真はほんの一部
 ◆ 石器も多く出た(調査報告書)これも一部だけ
石器も多く出た(調査報告書)これも一部だけ

 ◆ 地形測量図をGoogle Map に重ねてみる ※若干の誤差があるかも? (GIFアニメ)
地形測量図をGoogle Map に重ねてみる ※若干の誤差があるかも?

 ◆ 同じ丘陵に宮司大ヒタイ遺跡がある (弥生時代中期の貯蔵穴や古墳時代前期の竪穴式住居跡が出た)
同じ丘陵に宮司大ヒタイ遺跡がある(弥生時代中期の貯蔵穴や古墳時代前期の竪穴式住居跡が出た)

 ◆ 木が茂っている向こうが今川遺跡のあった丘の続き(今は住宅街) ※木の下に今川が流れている
木が茂っている向こうが今川遺跡のあった丘の続き(今は住宅街) ※木の下に今川が流れている

 ◆ 今川の右岸(写真では左側の岸)の丘が今川遺跡の発掘された場所
今川の右岸(写真では左側の岸)の丘が今川遺跡の発掘された場所

 ◆ 弥生時代の遺跡があった丘は住宅街になった
弥生時代の遺跡があった丘は住宅街になった
 ◆ この丘も発掘すればいろいろ出ると思うが・・
この丘は発掘されていないが発掘すればいろいろ出そうだ
 ◆ 遺跡があった丘の頂上付近(標高 13〜14m)
遺跡があった丘の頂上付近(標高 13〜14m)

◆ “たたら跡”と思われる場所は公園になっている
“たたら跡”と思われる場所は公園になっている
 ◆ 宮司大ヒタイ遺跡のあとには家が建っている
宮司大ヒタイ遺跡のあとには家が建っている

◆ 今川遺跡の場所はこういう場所だったかも?
今川遺跡の場所はこういう場所だったかも?
 ◆ 今川河口 ※この河口から稲作や鉄器の文明が入ってきた?
今川の河口付近 ※この河口から稲作や鉄器の文明が入ってきた?

 ◆ 今川河口付近の相ノ島の見える海岸は弥生時代と同じはずだ?
今川河口付近の相ノ島の見える海岸は弥生時代と同じはずだ?


■■■■■ カメリアステージ歴史資料館 ■■■■■


 ◆ 弥生土器
弥生土器
 ◆ 今川遺跡 ※ ビッグ写真はここ
今川遺跡
 ◆ 石器・土製品
石器・土製品

 ◆ 上の2つは銅鑿(どうのみ)、銅鏃(どうぞく)、下は 勾玉(まがたま)、丸玉(まるたま)、管玉(くだたま)
上の2つは銅鑿(どうのみ)、銅鏃(どうぞく)、下は 勾玉(まがたま)、丸玉(まるたま)、管玉(くだたま)



 
 

◆◆◆◆◆ 南無阿弥陀仏の碑と妖怪「今川の土坊主」 ◆◆◆◆◆

 今川遺跡の発掘調査が行われた丘のふもとの海岸通りにある今川橋のたもとに“南無阿弥陀仏の碑”というのがあります。昭和6年に岩崎清(天外)さんが立役者となり地元の有志により建てられたものです。

 今川の河口の両側に広がる砂浜を昔から蓑生浦(みのうがうら)といいます。平安時代からの古い呼び名で、菅原道真が大宰府に流されたとき、この沖合いで嵐にあい、あわてて津屋崎港に引き返して一夜を過ごしたという話もあります。

 昔からここには横死者(おうししゃ)が往々に有り陰暦の8のつく日の雨の夜には土坊主(どぼうず)という化け物が必ず出る。と噂されて、地元では忌地(いやじ)とされていた場所だそうだ。
ちなみに横死者(おうししゃ)とは広辞苑によると、「事故・殺害など、思いがけない災難で死ぬこと。不慮の死。非業の死」の意味です。

 ここは弘安の役(1281年)で「神風」にあい、海に沈んだ元軍兵の霊が成仏(じょうぶつ)できずに怨霊(おんりょう)となっているのだと語り伝えられています。 供養塔を建てて弔った後は土坊主(どぼうず)のなくなったそうです。

 供養塔のそばに碑文の意味を記した札があります。この碑文を苦労して翻訳した元学校の先生だった長瀬福孝さんの訳だと思います。長瀬福孝さんは「歴史探訪 今川橋 蒙古戦没者の供養塔」という本を著されており 南無阿弥陀仏の碑(蒙古戦没者の供養塔)の事が 詳しく書かれています。

 長瀬福孝さんの「歴史探訪 今川橋 蒙古戦没者の供養塔」という本にも紹介されていますが、古賀町史によると「宗像には蒙古来襲の記録」がある、記録はいくつかあるが共通して一致するのは「我が軍の戦死者3500余人、蒙古軍は2200余人、負傷者570余人、我が軍の戦死者は奴山郷に埋葬す。 今の百塔是なり。敵の死体は在自遠干潟、海浜の地下六尺に埋む。・・・・」ということのようだ。これは永仁二年(1294年)に死去した和田小太郎利家の記録と推定されています。蒙古襲来の弘安の役が 弘安4年(1281年)ですから、弘安の役の後の直ぐに書かれたもののようなので信憑性がありますね。
蒙古軍の死者を埋めた在自遠干潟は今の在自地区の海側(入り江になっていた)でしょうから、「ジョイフル福岡津屋崎店」辺りでしょうかね?(勝手な推測)  いずれにしても土坊主(どぼうず)という化け物が出ると言われた今川橋近辺ではないようです。

 今川橋辺りは元の福間町と津屋崎町の境界線があった場所で、昔は家もなく寂しい場所だったと思います。そういう村はずれには「幽霊が出る」、「妖怪が出る」などの昔話はよくある話で、珍しい事でもないですね。
もう一歩、大胆な推測をします。それは今川遺跡と関係のある話です。
 今川遺跡の発掘調査結果では弥生時代前期初頭の環濠集落遺跡という結論になっているようです。環濠は吉野ケ里遺跡などでも見つかっていますが、集落を守るために周囲に堀をめぐらせた集落ですね。
発掘された場所はほんの一部だけで全体像は定かでありませんが、発見された環濠跡の位置から見て、弥生時代には集落はもっと広かっただろうと思われます。今川の流れももう少し東にずれていた可能性がありますね(下記の想像図を参考にしてください)

しかし、時とともに今川の流れが変わり、今川遺跡の集落のあった丘は削られ狭くなったと思われるのです。そうすると、集落跡や墓地の人骨も流されて今川の下流に流れ出たのでたはずです? だから 今川橋の辺りでは人骨が多数発見され、 それが土坊主(どぼうず)の仕業により横死者(おうししゃ)になった人たちだ。元軍兵の霊が成仏(じょうぶつ)できずにさまよっている。という話になったのではないかと勝手に想像しています。
ちなみに1980年時点の今川右岸の岸は東にこぶのように出っ張っていたようです(参考資料)。その後そのこぶは切り取り今の姿になったようです。 弥生時代には遺跡のあった今川西岸はもっと東に広かったと思うのが自然のような気がします。

 
 

 ◆ 南無阿弥陀仏の碑 ※場所はここ(GoogleMap)
南無阿弥陀仏の碑
 ◆ 碑文の説明 ※ ビッグ写真はここ
碑文の説明

 ◆ 今の今川と遺跡の場所
今の今川と遺跡の場所
 ◆ 弥生時代の集落範囲はもっと広かったのでは?
弥生時代の集落範囲はもっと広かったのでは?

◆ 今の蓑生浦(みのうがうら)
今の蓑生浦(みのうがうら)
 ◆ 福岡の湘南と言われている
福岡の湘南と言われている
 ◆ 今川遺跡 動画(約5分)
今川遺跡 動画案内


 
 

◆◆◆◆◆ 弥生時代の年代と今川遺跡 ◆◆◆◆◆

 弥生時代とは、「本格的な水田稲作の開始から、定型的な前方後円墳の出現までの間の時代」と定義されています。 その年代は紀元前3世紀頃から紀元3世紀中頃までの間と長い間考えられてきました。その後いろいろな発掘調査の結果から紀元前6世紀から紀元後3世紀中頃までになりました。
一般的に縄文時代最後の土器は「夜臼式土器(ゆうすしきどき)」であり弥生時代最初の土器は板付T式土器(いたづけいちしきどき)」と言われています。 この両方が出土した今川遺跡の場合は縄文時代から弥生時代に移る時代の遺跡だね。ということになるのです。

 それって西暦で言えばいつの話?
報告書が作られた1981年頃の弥生時代は紀元前3世紀頃から紀元3世紀中頃まででしたから、紀元前4世紀から奈良時代の始め(紀元8世紀)頃の遺跡だね。となったのだと思うのです。
報告書では日本最古の青銅器や鉄器も紀元前3世紀という記述になっています。カメリアの歴史資料館の説明も紀元前3世紀となってますね。

 しかし、近年、土器付着炭化物や木炭や炭化米を試料とした放射性炭素年代測定によりかなり正確な年代が分かるようになりました。
 福岡県の板付(いたづけ)遺跡や佐賀県唐津市の菜畑(なばたけ)遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されています。 年代からいうと、菜畑遺跡は今から約2700年ほど前のもので板付遺跡の水田を含む層(晩期終末)よりも、およそ100年以上さかのぼります。 これは日本における水田稲作の開始が、従来考えられていた時期よりも、さらに200〜400年も前だったことを意味します。
そうなると結局、弥生時代は紀元前8世紀まで遡るという話になるのです。

 弥生時代が 紀元前8世紀〜3世紀中頃とするなら、今川遺跡で発掘された日本最古の青銅の鏃(やじり)や銅ノミ、鉄鏃(てつぞく)は紀元前8世紀頃の物となるのです。 今では今川遺跡の最古の青銅器、鉄器は紀元前8世紀でほぼ認知されているようです。
結局、今川遺跡は縄文の最後の頃の紀元前9世紀から奈良時代の始め(紀元8世紀)頃までの遺跡ということになりますね。

 
 



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